この石は石である
ヘルマン・ヘッセが、存在の普遍性と永遠性についてを、石をとりあげて非常に美しい言葉で表現した一節があるので紹介します。
「これは石だ。石はおそらく一定の時間のうちに土となるだろう。土から植物、あるいは人間が生じるだろう。昔なら私はこう言っただろう。『この石は単なる石にすぎない。無価値で、迷いの世界に属している。だが、石は変化の循環の間に人間や精神にもなるかもしれないから、そのゆえにこれにも価値を与える』。以前ならたぶん私はそう言っただろう。
だが、今日では私はこう考える。この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれを尊び愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ。
これが石であり、今日いま私に石として現れているがゆえにこそ、私はこれを愛し、その条紋やくぼみのすべての中に、黄色の中に、灰色の中に、硬さの中に、たたけばおのずと発する響きの中に、その表面の乾湿の度合いの中に、価値と意味を見る。油のような手ざわりの石も、シャボンのような手ざわりの石もある。葉のようなものも、砂のようなものもある。それぞれ特殊で、それぞれの流儀でオームを唱えている。どれもが梵である。が、同時に、同様に、石である。油のようであったり、シャボンのようであったりする。そのことこそ私の意にかない、驚嘆すべく、礼拝に値するように思われる。
だが、これ以上それについてことばを費やすのをやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすりかえられ、いくらか愚かしくなる。そうだ、それも大いによく、大いにわたしの意にかなう。ある人の宝であり智恵であるものが、ほかの人にとっては常に痴愚のように聞こえるということにも、私は大いに同感だ」
ゴーヴィンダは黙々と傾聴していた。
「なぜおん身はそれを石について語ったのか」
「何の下心もなかったのだ。あるいはひょっとしたら、自分はほかならぬ石や川や、自分たちが観察し、学ぶことのできるこれらいっさいのものを愛するということを言おうとしていたのかもしれない。ひとつの石を私は愛することができる、ゴーヴィンダよ。一本の木や一片の樹皮をも。それは物だ。物を人は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから、教えは私には無縁だ。教えは硬さも、柔らかさも、色も、かども、においも、味も持たない。たぶんおん身が平和を見いだすのを妨げているのは、それだ。たぶんことばの多いことだ。解脱も徳も、輪廻も涅槃も単なることばにすぎないからだ、ゴーヴィンダよ。涅槃であるようなものは存在しない。涅槃ということばが存在するばかりだ」
(『シッダールタ』より)






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