ホームページをアップしたものの、文章の修正をしたり、メニューの改編などを行なっている最中です。
ちょっとした混乱です。この経緯をお話したいと思います。
かつてある喪失を体験したとき、わたしはその理由は全部、自分のせいで、自分が悪いのだと思いました。わたしが自己実現できておらず、何ものをも成していないから、それを歩む豊かさと人生のクオリティをわたしは持っていないのだと自分に怒りを感じたのです。
だから、わたしは自分に生きる資格を与えようとし、なにかを持つことに必死になり、自分を生きるという意味を取り違えたと思います。
そんなわたしが、どうして、すべてを手放して、あるがままでいる慈愛のワークを授かったのでしょうか。
たぶん、そのワークを通じて、わたしと同じ苦しみを持っている人を解放するお手伝いをすることによって、その生きたエネルギーから学び、自分を解放してゆこうとわたしの魂が願ったからだと思います。
そのワークができたということは、わたしが目覚めていたわけではなく、わたしの魂がそれを強く望み、わたしの人生を修正しようとした、内なる絶対の力が、わたしを活かすやり方で、わたしのための学びに導いてくれたのだと思います。
このワークが出てきたあと、わたしは歓喜と内的力によって解放されたと感じ、自分が明らかに霊的な成長を歩んでいると感じました。空っぽの思考はわたしが空であることを教えてくれ、いよいよケン・ウィルバーがいうところの、ワンテイスト、ひとつである状態、見るものと見られるものとの主客の転換、その進化としてのワンネス、中身のある無をわたしという存在が体現していると感じました。
あるいは、そう思いたかったのかもしれませんが、なにかが、確かにわたしのなかで変容したことを感じたのです。
十牛図でいうところの、第8図。なにもかもが丸い円のなかに収まり、そこにはどんな色も人の影もない。
なにもないことの豊かさ。しばらくそこに留まった気がします。でも、そこは無風で、留まることのできない場所でした。そこに留まることは生きているとは言わない状態です。本当に生きるためには、そこから先へ進まなければなりませんでした。それが、心と魂のパラドクスですから、次に進むのはいつも難しいものです。
わたしは、ホームページを作り直し、アップして、第9図に移行する、しよう、していると感じました。それは本来、本当の無からひとつの宇宙を創るほどの大きなエネルギーと真実とのつながりを証明し、無であるからこそ見えたまったく新しい息吹をともなった世界、生まれ変わった自分、人間としてもう二度ともとに戻らないはずの結晶化した光を表現する場であるはずでした。
けれども、それがなかなか生み出すことができません。かくして、苦労して作り上げたものは、どこか違和感の残るものでした。何度も修正を繰り返しながらも、まだわたしのなかに息づくものを完全に表すことができません。
そして、中心を射抜けない矢のように、どこか鈍く、利いた風な感じ、さらに悪いのはある種の模倣をしている自分を見いだすことになりました。結晶化した人間は、少なくとも、自分を見いだした人間は、第二言語としての自分の言葉を持ちます。決して人の真似をしようとはせず、むしろ、人の真似だけは絶対に出来ないはずであるにもかかわらず、わたしの表現していることは、誰かの真似でした。
それは、わたしの怠惰から来ています。創造性を追求し、魂の全体性を生きること、自分自身を表現することへの真摯さと誠実さが欠けていて、しかもそのことに無意識で抵抗したのです。おそれやずるさもあったと思います。
当然かもしれませんが、わたしは落ち込み、一度は見いだしたと思った光が、わたしの願望からくる都合のいい思い込みであると見えたばかりではなく、その否定までしようとし、その理由をかつての霊的修行の障害による後遺症だと思いたがり、それを取り除こうとまでしました。
そして、そんな風に、時の流れから逸脱して立ち止まる自分が嫌になり、どんどん落ち込んでしまいました。
そんなとき、スピリチュアルエマージェンシーを論じた本を手にとりました。わたしは、自分が実存の段階からビーイングの存在になった、シャーマンのイニシエーションを通ったと主観的・相対的に体験しており、それが客観的で十全な体験ではなかったことに気づかされます。自分の傲慢さや、無知、その原因である自分や人を充分に愛してこられなかったことに地球大の穴が空くような悲しみと痛みを全身に感じるのでした。
わたしが求めていたものは、結局は自分の自我を肥大させる力だったのではないか。わたしは、内なる慈愛、すべてを慈しみ、育む愛を自分のなかに見いだすこと、あるいは小さな叡知の種を育て、自分自身が愛そのものになることを求めていながら、結局は、簡単に力を得る道を選び、愛からではなく、自分が力を持っていないという恐怖から働いていたのではないか。そんなことを思いました。
じつは、この気づきは何年も前に内観によって自分なりに心に留めていたことです。
当時、仏教に出会い、菩薩という概念と、自己浄化のための瞑想を通じて、わたしは自分がいかに穢れ、偽りを生きているのかを発見していました。懺悔の心、そして正しく生きようとする意志。発心。それが自分の内側で起きたと感じたことで、それ以上のなにも具体的な行動を修正することなしに、自分が正しい成長の流れに戻ったと思い込んだのです。
それは大きな間違いでした。気づくことだけでは何も変わりませんでした。仏教の根底に流れている大きな懐の愛と生きることの苦しみを抱え、含み超えてゆく強さを、学ぶことができていませんでした。いろいろなことを繊細に感じ、識別する力が自分にあると感じながら、本当の愛をわたしは持ち合わせていませんでした。
いわば、わたしの長年の癖である、何ものかに自分を預けて安心を得ることによって、自分を失い続け、何ものをも生み出さず、形だけ模倣する偽物になってゆくだけであることに気づかなかったのです。道を歩む者が最初に気づき、手放すことを促される自我というアイデンティティ、自分という幻想にしがみついたまま成長していなかったのです。
叡知を話し、書けるからといって、それが本当に自分のものでなければ、むしろ、話したり、書いたりすればするほど、自分が苦しく、またそれを聞く人が、本質を見極められる目と耳を持った人であれば、その表現からわたしに哀れみと痛みを感じることでしょう。
セミナーで人に会い、ホームページやブログにいろいろな言葉を書いてきましたが、そこには、わたしの言葉もあれば、そうではない言葉もありました。わたしの言葉とは、わたしの中心から、揺るぎない真実として、本当に知っていることとして発した言葉という意味で、わたしの言葉ではない場合は、わたしの思考から放った薄っぺらな言葉か、人の借り物です。
また、誰かの言葉を借りた部分は、わたしが、自分の言葉が薄っぺらなことを知っていて、だから、人のエネルギーをコピーして、言葉を真似て、自分が自分の中心からその真実を放ったという満足を得ようとしたのかもしれません。
それは、表現してみて、自分が一番よくわかることです。決して満足することはありません。しかし、この世界が慈悲でできていることを一番知ることができるのは、そんなときでもあるのです。
つまり、苦しみをとおして、なにかの歯車が合っていないことに気づかされます。人の心は本当に神が宿っていると感じます。自分が内なる真実にそむくことをすると、おかしくなってしまうようにできています。嘘がつけない本心があります。それが、心というものの神聖さだと感じずにはいられません。
また、自分自身の真実とズレてしまうとき、人との関係も、なにもかもがズレてしまいます。自分を愛するということは、そういう意味で自分とズレていないか、無理をしていないか、自分以上に自分を見せようとしていないか、そして、自分を受け止めらているかどうかをわかっていることだ、そんな風に思うのです。自分を受け止められていれば、ズレることもなく、人のことも本当に愛することができるのだと思うのです。
そして、いまわたしが初心に帰り、本当に願っていることはなんだろうと考えると、やはり、人を愛したい、それに尽きると思いました。
死を迎える瞬間に、わたしは何者でもなかったけれど、本当に人を愛したと誇りを持っていたい。
それだけです。
ありのままのその人を全部受け止めて、その人の魂ごと愛し、自分のなかで大切にその思いを育み・・・そして、その思いの結晶として、家族があり、仕事があり、人生があったと思えるようでいたい。
わたしはいまも、自分が自分の魂の真実とズレていると感じます。その気づきは、わたしを深く傷つけ、心を引き裂きます。まるで知らない土地にいるように、真実を遠くに感じます。本来、一歩一歩、歩いて来なければならない道を、あるとき走っている路面電車に飛び乗ってしまって、歩くという体験を放棄したせいで、知らない土地で生きる術を見いだせずに困っている人のようです。
だからいま、自分の道を歩むことの困難さと、そこで手にすることのできる宝物の価値をわたしは知っています。自分を責める気持ちもありますし、恥ずかしいとも思います。また、多くの方に迷惑をかけてしまったとも思います。
それはそのまま内なる神、崇高な光に対して、自分が不義であったこと、気高くあれなかったことを意味し、むしろそうであったからこそ、自分や人を欺くことができ、ズレに気づくことを避けて、さわやかな顔をして生きてしまえることができたのだと思うほどです。
罪とは、愛さないことです--フランスで出会ったシスターがわたしにくださった言葉です。わたしは、愛があるから、また、愛を忘れられるのだと思いたい。しかし、本当に忘れてしまうこともできるので、この世の挑戦はほどほどにしなければいけない。そういう意味で、わたしは罪深いと感じます。
きょう、この考えを受け入れてみました。わたしは、やはり、相変わらずおそれを抱き、自分の中心から生きることができないでいる、と。
石への感謝、出会った人びとへの感謝、信頼してくださった方々への感謝を忘れて、見失って、傲慢にワークしていたかもしれない、自分は井の中の蛙のように、外の世界の洗練と善、その美を知らずに生きてきたのではないか、と。
お世話になっている、そして迷惑をかけている方々のこと、自分の仕事のこと、そして自分のなかにある嘘について。真実が見えなくなって混乱している心について。このままではいけない、このままでは死ねない、そんな風にも思いました。
けれども、そんなわたしが生きてきたのは、わたしが生きてゆける場がほかでもないここにあり、出会いがあり、支えてくださる方々があり、信頼してくださる方々があったからです。そのことに、改めて幸せと深い感動を覚えます。これまでわたしを生かしてくださっていた、すべての方々、出来事、これからもわたしを迎えてくれるすべてに心からの感謝を感じています。
きょうここに、情けなくも、恥ずかしい自分を書くことで、わたしは、こんな自分を受け止め、本当の意味で闇を含み超えてゆこうと思います。そして、自分が以前とあまり変わってはいないものの、受け止められるくらいには成長していると、そしてこのプロセスそのものが内側からのセラピーであるらしいことに希望を見いだしながら、いまこそ、肯定的に人生を建て直し、真摯にワークしてゆこうと考えています。
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