日記

2009年10月 2日 (金)

約束

電撃的にあることを理解しました。

ひとりごととして書くので細かいことを省きますが・・・

いま、本当に世界のエネルギーが根本から変化したのだと感じます。
根本から、というのは、わたしたちの内側からという意味です。

かつては、またつい最近まで、ある種の光が全体を導いていました。
それはわたしたちに愛と善という道を教え、生命にとっての基本的な正しさと叡知を教えてきたと思います。その光は、リーダーたちをとおして具体的にはたらき、また少なくない人びとを仕事人としてピックアップして、ひとつの普遍的な価値観に向けて全体を方向づけてきた力です。

その支えと、指し示す光に勇気づけられて、わたしたちは前に進んできました。

そのなかで、わたしたちは多くを学び、また大きな間違いをおかすこともありました。

わたしたちは反省したり、自分たち自身を罰したりしながら、安らぐことのできる幸福を生来の権利として求め、豊かになってきたのだと思います。

もう充分です。

いまわたしたちは、ある時期に来て、自立に向けて保護の手を離し歩きだしたのだと思います。

いま、日本で重要な役割をになっている、またこれから世界のひとつのモデルになろうとしているリーダーの方のなかに、かつて人類を導いていた光は見えません。

そこに見えるのは、内側の光なのです。

善きものとして、多くの失敗と経験から熟成された豊かな感情と手作りの温かさに溢れているのです。

わたしたちが自分で見いだした道、自分たちで見いだした愛のあり方。

小さなものが、より大きなものを包括できる透明な光です。

それが、どこまでも遠く見通せる。

そこに在るのは、内側深くで受肉した光なのです。
わたしたちのオリジナルな光なのです。

ある意味、もうリーダーはいらないときが来ているのでしょう。

これまである種の光が強くわたしたちを導いてきてくださった真の理由は、それを必要としないところまでわたしたちが成長し、自立するまで、という約束があったからなのでしょう。

それがいまというときであり、国レベルで顕すことができたのは、たぶんこの日本が世界ではじめてなのではないかと考えます。

そして、その流れは、もうすでに次のステージに移っているようです。

日本という国で、過去と未来がつながった。

そんなことを思いながらぽーっとなり、思わず涙がポロポロ溢れました。

ふと、教典のなかの「帰ってきた放蕩息子」の話を思い出しました。
このときをはるか遠くまで見通せる目で見てくださっていたのですね。

ありがとうございます。

そう思うと何もかも愛おしくて、きょうほど、生まれてきてよかったと感じたことはありません。なんとも言えない、言葉にできない体験です。

変わってゆく。

なかなか変わらないものもあるけれど、それもプロセスですし、バランスですね。きっとすべてがうまくいく。

これから、もっともっといろいろなことが劇的に明らかになってゆくでしょうね。
ともに歩んでゆきたいですね。

ひとりごとでした・・・

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2009年9月29日 (火)

癒されるよりも・・・

シャーマンの契約を交わしてから、高次元に霊の癒しのためのお部屋を持っていたのですが、最近、またエネルギーシフトがあり、わたしはシャーマンとしての霊的権限を手放し、その霊たちの癒しのためのお部屋は、ティーチングのためのお部屋に変わりました。

スーパーヴァイザーとのセッションで明らかになったのですが、わたしのシャーマンとしての契約は切れていて、そのかわりに、スピリチュアルティーチャーとしての契約を交わしていました。

もともと、シャーマンとしての霊的契約は、わたしが完全に自由であることを前提に交わされたもので、いろいろなものを(自分自身そものもも)手放せないでいるときには、交わすことのできないものでした。わたしが自由な状態で契約したので、それを手放すこともわたしの自由なのです。

シャーマンとして365日24時間霊たちの癒しをし続けるかわりに、自分が誰であるのか思い出させることによって、その存在が自ら気づいて愛のなかへ戻ってゆく、霊たちにそんなことを教えているようです。

ちょっとびっくりしましたが、どこまでも深く納得できました。

癒すのではなく、いまここで、本来の自分に気づくことを助ける。

自分という愛に、いまここにある光に。

それはどこへも連れて行かない。

それでいいのです。

光は、いま、ここ以外のどこにもないのだから。

いまここに在る、魂の光そのものになること。

光を受け取って癒されるよりも、自分自身の内なる光から真実を見いだすことのほうがどれほどの深い癒しでしょう。

それは、過去も未来も、いまという永遠の瞬間につながるすべてを癒すと思います。

同時に、今回の変化によって、わたしの魂の喜びが、癒すことではなく、その存在が自分をより深く開き、真実に触れること、内なる生命の源の光によって自らを癒し、自分自身で在り続けることをサポートさせていただくことなんだと、改めて気づくことができ、お仕事の方向性もより明確になりました。

このことで一番癒されたのは、わたし自身かもしれません。^^

シャーマンというカルマ(役割)から学ぶというひとつのステージが終わりました。

わたしは多くの時代をシャーマンとして生きてきましたが、今回は、シャーマンとして生きたかったわけではありません。

役割や知識と同化して(叡知でさえも!)、何者かになって生きることは息苦しく、自分自身の喜びと反れてしまう、そして、本来の自分-純粋な喜び、何者でもないもの-として生きる、そんなことを知るための学びをくり返し体験してきたと思います。とても深く、強烈に。

わたしは、いま、とても嬉しいです。
わたしが自由だからです。

喜びのままに生きる。

そんなの当たり前のことじゃん、という人もいるかもしれません。

やりたくないことなんか、どうしてやるの?という人もいるかもしれません。

でも、わたしには、難しかったのです。その体験が必要だったのです。

わたしは、体験したかったのです。

だから、わたしは、人の学びを決して奪うことはしません。

わたしもそのように扱われたいからです。

この体験のおかげで、7月ころに感じていた分離感と悲しみはすっかりなくなりました^^。

シャーマンとしてワークすることはわたしの魂の喜びにかなうものではなかったので、あんなに苦しかったんですね。^^;

またきっと、これからも変わり続けるんだろうな~とは思いますが、もっともっと楽しめると思います。

ティーチングは高次元でのライトワークですが、現実的なセッションメニューもそのようになってゆくと思います。

霊的トラブルや霊障にかんするワークは、シャーマンとしての霊的権限を持たなくても別の手法で行なってゆくことができますので、今後も必要とされたときはさせていただきます。

また、ホームベージも更新してゆきますね~。
いろいろなことが明らかになり、楽しいですね。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2009年9月 7日 (月)

永遠の10秒

9月2日の夜のことです。

横になって内なる沈黙の声に耳を傾けてみると、魂の視座がぱっと松果体にのぼり、後頭部から空へ移動してゆきました。

完全な静寂。

無。

すべてを観ている無。受容している無。

静まり返っている、とも言い難いような、躍動する無のなかにわたしは放り出されていました。

わたしは在る。

在るという意識だけがぽっかり浮かび上がり、そこにとどまることができるという軽い驚きとともに、わたしは、すべてを、ただ、そのまま観ている目になりました。

そのまなざしで眺めるわたしの考え、感じは、わたしが「持っている」ものであって、わたしではないというはっきりした認識がやってきました。その瞬間に、濃厚な感じがふいに訪れたのです。

一体感。

それは、ただ穏やかな直接体験として訪れました。

生きた無。それは言葉にならないものだけど、あえて当てはめるなら「至福」でした。

時間にしたら、10秒くらいなものだったでしょうか。

そのまま、気持ちよく眠り、気持ち良く目覚め、起きて活動し、普通に、幸せに毎日を過ごしていたのですが、きょう、何もかもが明瞭で、そういえばこの感じは、そのとき以来のものだなぁ、と思ったとき、ハッと、あの10秒が、永遠の10秒であったことに気づきました。

あの10秒が、その後の人生を導いてゆく、そんな大切な瞬間だったことに気づきました。

客観意識というものがあるとしたら、いまのわたしはわたしであって、わたしでなく、かつ、いつのどの瞬間よりもわたしであると言い切れます。

すべて価値あるものは、本当にさりげなく、優しく、心地よく、そっと訪れるのですね。

忘れてしまうくらいに・・・

そっと・・・

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2009年9月 5日 (土)

見えない贈り物

本日、セッション中に素晴らしい贈り物をいただきました。

1ヶ月ほど前から、ヒーリングをするときに空気を変えてくれる、ある独特のエネルギーをともなう手の動きが出てきていたのですが、きょう、その動きをしているときに、天からハープが降りてきて、手の動きにあわせて、音が出ました。

透明な水晶のような材質でできた大きなハープで、身体の耳には聴こえないのですが、ポロンポロンと指をひくと、とても美しい音色がしました。そのままセッションでも使わせていただいたのですが、レムリア的な愛と調和の波長を奏でる天上の音楽になっていました。

休み時間に練習していると、天使さんたちが聴きにきてくれたので、これは天使さんたちが休まるための音楽なのかな?と思っていたら、つぎの方のセッションで(友人です)、内に秘めていた感情を解放するワークのために、再びこのハープが登場しました。

それが、とても優雅で、自然なやり方で、ゆっくりと時間をかけて、涙が光のなかに消えてすっきりするまで、ずっと優しい音楽を奏で続けました。

表に現れることのなかった気持ちは、涙という宝石になって美しい音色とともにキラキラと舞っていました。

言葉にできなくてもいい、それがなんなのか、わからなくてもいい、ただ、自分の心に優しい光をあてるだけ・・・そんなことを教えてくれる素晴らしい贈り物だったのです。

またひとつ、勉強させていただきました。

もうすこし、この見えない楽器とともにワークしてみようと思います。

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2009年9月 4日 (金)

個を超えてゆく~トランスパーソナルということ

8月の新月から行なっている【30日間のギフトヒーリング】が半分すぎて、これまでで49名の方のヒーリングが終了しました。

クリスタルヒーリング以外のヒーリングで、こんなにたくさんの方々とお話させていただいたり、ヒーリングさせていただくのは初めてで、みなさまのご意見やご感想をお伺いするたびに大変勉強になり、また、自信が持てて、わたしもどんどん豊かな感じに満たされています。この経験を糧にして、さらに頑張ってゆこうと思っています。(まだ半分ですが)

エネルギーワークは遠隔でもできるのですが、やはり、わたしは、お一人おひとりとお会いして、または、お電話でお話しながらワークするのが好きです。

内なる生命の光や愛は、どのような方であっても、年代、性別、職業も関係なく、同じ光ですが、そこだけを大切にするのではなく、心も身体も魂も、全体が求めているひとつの流れを見いだし、そこに在ることをそっと支えてゆく、そんなわたしにとっての喜びを見いだすことができ、いろいろな意味で、学ばせていただいています。

より一層、ワークの方向性が明確になってきました。

わたしは、魂、霊性を含めた見えない領域が息づいている全体としての現実、「今、ここにあるもの」を大切にしたい。

まわりにどんな環境があるのかも、関わる人びとも、体調も、起きる出来事も、受け取った体験も、言葉にできない何かも含めて、全部がその人そのものだと思います。それらすべてを大切にしながら、全体を生きてゆく、それらのすべてを自分のものとして認め、全体性を引き受けてゆくことの豊かさは、本当の生きる意味を教えてくれる、そんな風に思います。

責任を引き受けること、それがスピリチュアルということだと思うのです。

本当の意味で、世界の中心にいること、自分がすべての元因(コーザル)であり、その展開としての現実のあり様を愛してゆくとき、人は個を超えてトランスパーソナルな存在になり、もっとも身近にあった生命という光の価値を知ることができる気がします。

生きて流れ、海のように大きなすべてなるものに注ぐ川のような生命。

一瞬たりとも同じあり様ではなく、つねに変わり続け、動いてきたありのままの大河。

多様でありながら、流れというひとつの本質、永遠の不変性、その一点でわたしたちは同じなのだと思います。

今度の新月がくるころ、またなにかが生まれる気がします。

そんな風に思うきょうこの頃です。

そうそう、いま、MANAでは手洗いとうがいを励行しています。自宅をかねたマンションですし、たくさんの方が出入りするので、ご協力をお願いしております。どうぞよろしくお願いいたします。

みなさんは、お元気ですか?

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2009年8月26日 (水)

海にひかれて

昨日はお休みだったのですが友人と海を見渡せる吾妻山に行ってきました。

久々の低山歩きで足がよろよろでしたがwobbly、小高い山の斜面に植えられたコスモスが元気に咲いていて、その向こうに大磯~湘南の海が見渡せました。

山には蝉の声が大反響していて、木漏れ日からさす太陽も涼しくとても気持ちよかったです。自然のなかにいると、オーラが薫燻されてニュートラルな自分に戻りますよね。

帰りは西湘南バイパスをとおって、海を見ながら帰りました。

今年は海で泳ぐ機会がなかったけれど、空からの光もきれいで、満足しました。

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コスモスの向こうに湘南の海

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真ん中のコスモスのなかに虹色の光の玉が写りました。

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もう秋なんですね~。

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夏の終わりに・・・

そうそう、出かける前に偶然テレビで占いをやっていたのですが、わたしのラッキーアイテムがデジタルカメラと出ていて、タイミングが合ってましたhappy01

きょうはふくらはぎがちょっと痛いですけど、楽しかったので元気です~。

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2009年8月22日 (土)

リニューアル後・初の瞑想会

きょうは久々の瞑想会を行ないました。

4ヶ月ぶり、サイトリニューアル後、初の瞑想会でした。

初めての方も、いままでもいらしてくださっていた方々も、6名の方が参加してくださり、みんなでEarth-Sky Meditationを行ないました。

アーススカイは、天と地の間に愛された存在としての自分を感じ、もともとわたしたちが自分のなかにかけがえのないものを持っていることに気づくこと、そして、世界と自分をひとつと見なし、すべてを自分のなかに感じて、見守り、祈りながら慈しむ、そんな瞑想です。

わたしはこの瞑想が大好きで、4~5年前、歩きながらこの瞑想をして泣いたことがあります。きょうも、そのときに感じた母なる大地と、天の父(わたしはこう呼ぶのが好きです)の、まっすぐにわたしに向かってくる愛をひしっと抱きとめながら、あのときと同じ喜びを感じることができ、ちょっぴり、涙がにじみました。

この瞑想は、自分のなかの母性元型、父性元型を活性化させます。

パートナーがいる方は、自分のなかの女神性と、そのパートナーとしての神・父性を相手のなかに見いだすことができるようになり、パートナーがいない方は、自分の母と父が体現している母性と父性を見ることができ、やがて、その偉大な右と左、上と下の二柱、聖なる愛を自分の中心に感じることができるようになります。

みなさんも、それぞれのペースでお家でも体験してくださると嬉しいですbud

来月もまた、なにか素敵な瞑想をご紹介したいなと思っています。

瞑想会のあとの、みなさんと雑談したりする時間も大好きです。

きょうは、本当にとても心温まりました。みなさま、ありがとうございました。

わたしは30日間ヒーリングの長距離マラソンを走り出していますが、きっと大丈夫です。

また、来月お会いしましょう・・・

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2009年8月13日 (木)

バースディセレブレーションの香りに包まれて

来週のプラネタリーヒーリングで使うアロマオイルを揃えるため、必要なエッセンシャルオイルを仕入れました。通常のアロマではあまり頻繁に使わないバジル、クローブ、ジンジャーなどのシングルオイルをはじめ、トンカやオークモスのブーケットを創るためのオイルなど、いろいろなオイルが届きました。

家にある40種類のオイルに加えて、20種類が新しく仲間に入って、テーブルの上にずらりと60種類以上ものオイルが並んでいます。キャップをあけて、香りを確かめてみると、フレッシュで素敵な香りがふわ~と広がり。

遮光瓶に乳鉢に煮沸用の鍋、なかなか充実した魔女のテーブルになりました。

初めてヒーリングサロンを開いたとき、わたしはアロマセラピストとして働いていました。そのときもオイルを並べて、直感的に香りをまぜながら、そのときだけのひらめきで新しいブレンドを創るのが得意でした。

もちろん、施術用にはブレンドの相性や分量などとても気を遣っていましたが、自分用には大好きな香りのエッセンシャルオイルを全部混ぜたり、生のハーブを入れたり、アルコールでハーブとアロマのティンクチャーを創ったりして思い切り自由に楽しんでました。

そのときに、大好きだったスペシャルブレンドを、今回、また創ってみました。

名付けて「バースデイセレブレーション」。

30mlのベースオイルに、
ネロリ2
ローズ1
ジャスミン2
サンダルウッド2
ラベンダー1

です。

ラベンダーを入れたのはわたし流ですが、このレシピはマジカルアロマでは、本物のマグノリアのかわりに同じエネルギーを持つブーケットのレシピとして知られています。

好みがあるとは思うのですが、この濃厚で華やかなお花の香りがするブレンドは、女性に人気があります。特別、という意味でバースディという名前にしていますが、誕生日じゃなくてもじゃんじゃんつかっちゃいます。

うふふ、とても良い香りです。

さっそく贅沢に、クレンジングにしたり(洗っちゃうのです~)、お休み前のマッサージにつかったり、お出かけのお香として活躍中です。

来週、惑星の愛によるサポートを感じながら、みんなでオイルをまぜまぜするのもとっても楽しみにしています♪

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2009年8月 7日 (金)

人類学のフィールドワークに参加

きょう、英国国立日本研究所の方から取材を受けました。

現代日本文化社会学/人類学のフィールドワークとして、「日本人が安心と精神救済を、どこで、どのように求めているのか」という研究のひとつのテーマとしてスピリチュアルヒーリングの職能者としての取材をさせてほしい、という連絡をいただきました。

わたしの話は、日本社会の実情などの客観的な見方というよりも、内側からの主観的な視点でのお話になりますが、それでもよろしければ・・・、ということで、お会いしてインタビューを受け、いろいろわたしなりにお話させていただきました。

スピリチュアルヒーリングというもの、どのような方々がそれを必要としているのか、また必要としていないのか、心理カウンセリングとの違い、精神科との違い、外国のスピリチュアル系の先生方がここ10年くらい多く来日されて日本でいろいろなセミナーを行なっていること、江原さんのこと(これはなにかのキーになっていたようですが、わたしは江原さんは好きです)、ご先祖信仰のこと、日本人の自殺者数が多いこと、中高年世代について、日本独特のコミュニティの崩壊と孤独について、西洋流の個人主義がおよぼしたもの、スピリチュアリティの弊害、ヒーリングという仕事の社会のなかでの立場、日本人の精神性、そして、東洋も西洋もない、ひとつの心について・・・などなど。

こう書くと固い感じですが、実際は2時間あまり、わたしはとても楽しく、わくわくしながらお話させていただき、話しながら、なにか内側で動くものがあり、とても貴重な機会をいただいたと思います。

「とても興味深いお話で、いろいろな方に話を聴いていますが、ここまで深くはならなかったです。初めてですね」とおっしゃっていただきました。そのときはふわ~と、嬉しく思っていたのですが、あとになって、なんの話のときだっけ?と思い出そうとしても、忘れている自分がいます・・・

いま思うのは、う~ん、なんでしょう。

わたしは、大それた大義をもって仕事をしているわけではありません。医療従事者でもないし、教育関係のものでもありません。そういう意味ではひとつの体系を包括したうえでなにかを語る権利はないかもしれません。スピリチュアルという言葉も、ヒーリングという言葉もあるところでは批判を受けるものであることも、じつはよく知っています。

それが、もっとも共感を覚えるトランスパーソナル研究の分野からさえも出てくることも知っています。イギリスにおいてはスピリチュアルヒーリングは歴史もあるし、社会的にも認知されていますが、日本はそこまで進んでいません。

いろいろな事情があると思います。それらすべて正しくその通り、あるべきように社会はなっていると見えるし、すべてが好ましいと感じるのです。それでいい、と。

わたし自身がいろいろな体験や勉強をしてきたなかで、癒された経験があり、解放の喜びを味わったことがある。それは真実です。

わたしとしては、ただ、それを大切にし、できれば何らかの形で活かしたいと思っているだけなんだな、と思います。

そうした小さな思いが全体を創っていて、歴史は自然に積み重なるものだと思うし。

研究者の方は11月まで日本にいらっしゃって取材を続け、帰国されたら論文を執筆されるそうです。テレホンショッキングみたいに、ある専門家の方を紹介させていただきました^^。もっと日本のことを知っていただけたらすごく嬉しいです。

論文が書き上がったら送ってくださるそうで、いまから、楽しみにしています。

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2009年7月20日 (月)

自分の不誠実と怠惰、創造性の欠如への抵抗という闇を見る

ホームページをアップしたものの、文章の修正をしたり、メニューの改編などを行なっている最中です。

ちょっとした混乱です。この経緯をお話したいと思います。

かつてある喪失を体験したとき、わたしはその理由は全部、自分のせいで、自分が悪いのだと思いました。わたしが自己実現できておらず、何ものをも成していないから、それを歩む豊かさと人生のクオリティをわたしは持っていないのだと自分に怒りを感じたのです。

だから、わたしは自分に生きる資格を与えようとし、なにかを持つことに必死になり、自分を生きるという意味を取り違えたと思います。

そんなわたしが、どうして、すべてを手放して、あるがままでいる慈愛のワークを授かったのでしょうか。

たぶん、そのワークを通じて、わたしと同じ苦しみを持っている人を解放するお手伝いをすることによって、その生きたエネルギーから学び、自分を解放してゆこうとわたしの魂が願ったからだと思います。

そのワークができたということは、わたしが目覚めていたわけではなく、わたしの魂がそれを強く望み、わたしの人生を修正しようとした、内なる絶対の力が、わたしを活かすやり方で、わたしのための学びに導いてくれたのだと思います。

このワークが出てきたあと、わたしは歓喜と内的力によって解放されたと感じ、自分が明らかに霊的な成長を歩んでいると感じました。空っぽの思考はわたしが空であることを教えてくれ、いよいよケン・ウィルバーがいうところの、ワンテイスト、ひとつである状態、見るものと見られるものとの主客の転換、その進化としてのワンネス、中身のある無をわたしという存在が体現していると感じました。

あるいは、そう思いたかったのかもしれませんが、なにかが、確かにわたしのなかで変容したことを感じたのです。

十牛図でいうところの、第8図。なにもかもが丸い円のなかに収まり、そこにはどんな色も人の影もない。

なにもないことの豊かさ。しばらくそこに留まった気がします。でも、そこは無風で、留まることのできない場所でした。そこに留まることは生きているとは言わない状態です。本当に生きるためには、そこから先へ進まなければなりませんでした。それが、心と魂のパラドクスですから、次に進むのはいつも難しいものです。

わたしは、ホームページを作り直し、アップして、第9図に移行する、しよう、していると感じました。それは本来、本当の無からひとつの宇宙を創るほどの大きなエネルギーと真実とのつながりを証明し、無であるからこそ見えたまったく新しい息吹をともなった世界、生まれ変わった自分、人間としてもう二度ともとに戻らないはずの結晶化した光を表現する場であるはずでした。

けれども、それがなかなか生み出すことができません。かくして、苦労して作り上げたものは、どこか違和感の残るものでした。何度も修正を繰り返しながらも、まだわたしのなかに息づくものを完全に表すことができません。

そして、中心を射抜けない矢のように、どこか鈍く、利いた風な感じ、さらに悪いのはある種の模倣をしている自分を見いだすことになりました。結晶化した人間は、少なくとも、自分を見いだした人間は、第二言語としての自分の言葉を持ちます。決して人の真似をしようとはせず、むしろ、人の真似だけは絶対に出来ないはずであるにもかかわらず、わたしの表現していることは、誰かの真似でした。

それは、わたしの怠惰から来ています。創造性を追求し、魂の全体性を生きること、自分自身を表現することへの真摯さと誠実さが欠けていて、しかもそのことに無意識で抵抗したのです。おそれやずるさもあったと思います。

当然かもしれませんが、わたしは落ち込み、一度は見いだしたと思った光が、わたしの願望からくる都合のいい思い込みであると見えたばかりではなく、その否定までしようとし、その理由をかつての霊的修行の障害による後遺症だと思いたがり、それを取り除こうとまでしました。

そして、そんな風に、時の流れから逸脱して立ち止まる自分が嫌になり、どんどん落ち込んでしまいました。

そんなとき、スピリチュアルエマージェンシーを論じた本を手にとりました。わたしは、自分が実存の段階からビーイングの存在になった、シャーマンのイニシエーションを通ったと主観的・相対的に体験しており、それが客観的で十全な体験ではなかったことに気づかされます。自分の傲慢さや、無知、その原因である自分や人を充分に愛してこられなかったことに地球大の穴が空くような悲しみと痛みを全身に感じるのでした。

わたしが求めていたものは、結局は自分の自我を肥大させる力だったのではないか。わたしは、内なる慈愛、すべてを慈しみ、育む愛を自分のなかに見いだすこと、あるいは小さな叡知の種を育て、自分自身が愛そのものになることを求めていながら、結局は、簡単に力を得る道を選び、愛からではなく、自分が力を持っていないという恐怖から働いていたのではないか。そんなことを思いました。

じつは、この気づきは何年も前に内観によって自分なりに心に留めていたことです。

当時、仏教に出会い、菩薩という概念と、自己浄化のための瞑想を通じて、わたしは自分がいかに穢れ、偽りを生きているのかを発見していました。懺悔の心、そして正しく生きようとする意志。発心。それが自分の内側で起きたと感じたことで、それ以上のなにも具体的な行動を修正することなしに、自分が正しい成長の流れに戻ったと思い込んだのです。

それは大きな間違いでした。気づくことだけでは何も変わりませんでした。仏教の根底に流れている大きな懐の愛と生きることの苦しみを抱え、含み超えてゆく強さを、学ぶことができていませんでした。いろいろなことを繊細に感じ、識別する力が自分にあると感じながら、本当の愛をわたしは持ち合わせていませんでした。

いわば、わたしの長年の癖である、何ものかに自分を預けて安心を得ることによって、自分を失い続け、何ものをも生み出さず、形だけ模倣する偽物になってゆくだけであることに気づかなかったのです。道を歩む者が最初に気づき、手放すことを促される自我というアイデンティティ、自分という幻想にしがみついたまま成長していなかったのです。

叡知を話し、書けるからといって、それが本当に自分のものでなければ、むしろ、話したり、書いたりすればするほど、自分が苦しく、またそれを聞く人が、本質を見極められる目と耳を持った人であれば、その表現からわたしに哀れみと痛みを感じることでしょう。

セミナーで人に会い、ホームページやブログにいろいろな言葉を書いてきましたが、そこには、わたしの言葉もあれば、そうではない言葉もありました。わたしの言葉とは、わたしの中心から、揺るぎない真実として、本当に知っていることとして発した言葉という意味で、わたしの言葉ではない場合は、わたしの思考から放った薄っぺらな言葉か、人の借り物です。

また、誰かの言葉を借りた部分は、わたしが、自分の言葉が薄っぺらなことを知っていて、だから、人のエネルギーをコピーして、言葉を真似て、自分が自分の中心からその真実を放ったという満足を得ようとしたのかもしれません。

それは、表現してみて、自分が一番よくわかることです。決して満足することはありません。しかし、この世界が慈悲でできていることを一番知ることができるのは、そんなときでもあるのです。

つまり、苦しみをとおして、なにかの歯車が合っていないことに気づかされます。人の心は本当に神が宿っていると感じます。自分が内なる真実にそむくことをすると、おかしくなってしまうようにできています。嘘がつけない本心があります。それが、心というものの神聖さだと感じずにはいられません。

また、自分自身の真実とズレてしまうとき、人との関係も、なにもかもがズレてしまいます。自分を愛するということは、そういう意味で自分とズレていないか、無理をしていないか、自分以上に自分を見せようとしていないか、そして、自分を受け止めらているかどうかをわかっていることだ、そんな風に思うのです。自分を受け止められていれば、ズレることもなく、人のことも本当に愛することができるのだと思うのです。

そして、いまわたしが初心に帰り、本当に願っていることはなんだろうと考えると、やはり、人を愛したい、それに尽きると思いました。

死を迎える瞬間に、わたしは何者でもなかったけれど、本当に人を愛したと誇りを持っていたい。

それだけです。

ありのままのその人を全部受け止めて、その人の魂ごと愛し、自分のなかで大切にその思いを育み・・・そして、その思いの結晶として、家族があり、仕事があり、人生があったと思えるようでいたい。

わたしはいまも、自分が自分の魂の真実とズレていると感じます。その気づきは、わたしを深く傷つけ、心を引き裂きます。まるで知らない土地にいるように、真実を遠くに感じます。本来、一歩一歩、歩いて来なければならない道を、あるとき走っている路面電車に飛び乗ってしまって、歩くという体験を放棄したせいで、知らない土地で生きる術を見いだせずに困っている人のようです。

だからいま、自分の道を歩むことの困難さと、そこで手にすることのできる宝物の価値をわたしは知っています。自分を責める気持ちもありますし、恥ずかしいとも思います。また、多くの方に迷惑をかけてしまったとも思います。

それはそのまま内なる神、崇高な光に対して、自分が不義であったこと、気高くあれなかったことを意味し、むしろそうであったからこそ、自分や人を欺くことができ、ズレに気づくことを避けて、さわやかな顔をして生きてしまえることができたのだと思うほどです。

罪とは、愛さないことです--フランスで出会ったシスターがわたしにくださった言葉です。わたしは、愛があるから、また、愛を忘れられるのだと思いたい。しかし、本当に忘れてしまうこともできるので、この世の挑戦はほどほどにしなければいけない。そういう意味で、わたしは罪深いと感じます。

きょう、この考えを受け入れてみました。わたしは、やはり、相変わらずおそれを抱き、自分の中心から生きることができないでいる、と。

石への感謝、出会った人びとへの感謝、信頼してくださった方々への感謝を忘れて、見失って、傲慢にワークしていたかもしれない、自分は井の中の蛙のように、外の世界の洗練と善、その美を知らずに生きてきたのではないか、と。

お世話になっている、そして迷惑をかけている方々のこと、自分の仕事のこと、そして自分のなかにある嘘について。真実が見えなくなって混乱している心について。このままではいけない、このままでは死ねない、そんな風にも思いました。

けれども、そんなわたしが生きてきたのは、わたしが生きてゆける場がほかでもないここにあり、出会いがあり、支えてくださる方々があり、信頼してくださる方々があったからです。そのことに、改めて幸せと深い感動を覚えます。これまでわたしを生かしてくださっていた、すべての方々、出来事、これからもわたしを迎えてくれるすべてに心からの感謝を感じています。

きょうここに、情けなくも、恥ずかしい自分を書くことで、わたしは、こんな自分を受け止め、本当の意味で闇を含み超えてゆこうと思います。そして、自分が以前とあまり変わってはいないものの、受け止められるくらいには成長していると、そしてこのプロセスそのものが内側からのセラピーであるらしいことに希望を見いだしながら、いまこそ、肯定的に人生を建て直し、真摯にワークしてゆこうと考えています。

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2009年7月17日 (金)

むかしの日記は恥ずかしい

先日、あるお客様からお電話をいただき、セッションのお申し込みをいただいたのですが、そのきっかけが、わたしが昔、クリスタルのお店に勤めていたときに書いていたブログをネット上で偶然見つけてくださり、興味を持ってくださったとのことでした。

たしか、2002年頃に始めた日記で、当時は無料のブログというものがなくて(わたしが知らなかっただけかも)、1年更新の有料の日記サーバーに書いていました。

会社を辞めたため更新しなくなり、放っておけば削除されると思ってそのままにしていたので、とっくになくなっているはずだったし、存在を忘れていたのですが、ふと、言われて調べてみたら、なんと広告が入ってまだネット上にあり、驚いてしまいました。

全部、見たわけではないのですが、いろいろと書いてたと思うので、暇で仕方ないときなどに見てみてください。時代の空気(古~い、熱~い感じ?)など感じるかも・・です。

パスワード等忘れているので、どっちみち削除したくても無理なので、いっそのこと公開しますcatface

http://www.enpitu.ne.jp/usr8/85225/

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2009年6月21日 (日)

オリジナルを生きること

自分を表現することって、おそれと関係していますね。

今回、快調にホームページを創り始めたのですが、見えない声から突っ込みが入り、見直す部分がたくさん出てきてしまいました。

自分では、自分の内面とよく一致しているつもりだったのですが、見えてない部分もありました。

たとえば、セッションメニューの作り方、メニューの名前、文章、それだけでなく、ワークの仕方そのもの、講座の内容も、一度表現してみてその状態を自分が体験すると、心と身体と魂と調和しているかどうかがわかります。

以前は、少しくらいズレていてもそのままでいられたのですが、いまは、ほんの少しのズレがひとつのボタンの掛け違いのように、全部がズレてしまう結果を生んでしまいます。

そのかすかなズレをよく感じながら、どこからそのズレがきているのかを理解して、そして、中心を射抜く矢のように、そのままを表現してゆく。

そんなことを感じながら、全体の見直しを始めました(まだ全体が出来上がっていないんですけど・・・)。

わたしには、自分にとっての、ある洗練された存在の状態というのがあります。その洗練された存在の状態を顕している人を見ると無条件に尊敬しますし、深く感動し、いつまでもその人を見ていたいと思います。

それは、「その人が、その人そのものであることを自分にゆるしている状態」です。洗練されている、というのは、つまり、比較で示せる優れた状態のことではなく、自分を生きている、オリジナルであるということなのです。

人がパーソナルな部分を極めてゆくと、それはどこかで普遍化し、普遍的に人を感動させる要素がある。

今回、そのことに改めて気づきました。

そう考えてみると、どこまでオリジナルを表現できているんだろう、と自分なりに見直してみこところ、いろいろと修正することが出てきました。

修正した部分は、やはり自分の言葉でなかったり、自分らしいやり方ではなかったり、自分の意識の中になかったもので受け入れていたものです。

今回も、やはり、おそれをてばなして、自分のすべてを慈しみ、表現するというテーマを学ばせてもらいました。

そんなわけで、一昨日くらいから修正&更新を始めています。

また、名前につけた「インスティテュート」は学校という意味ですが、研究を深めてゆくというニュアンスがあるので、改めて考え直し、シンプルに「ヒーリングスクール&セッションルーム」としました。

そして、何を伝えたいのかをひとことで言い表す言葉をタイトルにつけることにし、「ありのままを慈しむ」という言葉をロゴのなかに入れました。

変化してゆくときは、まず意識が先に進みます。そして身体と現実をそれに合わせてゆく、そんなことを繰り返し、今年はずっと休むひまもないくらい仕事をしていますが、いつか落ち着くのかな、と思っています。

この夏から秋くらいにひと段落はやってくると感じていますが、変化という意味では、一生変化し続け、学び続けていくのだろうな、とも思います。

今後も、いろいろ変えることがあったり、追加したりすることもあると思いますが、「みゆきさんはまだ変化が終わってないんだね~happy01」と温かく見守っていただけたら嬉しいです。

そんなわけで、まだホームページ完成していません。また、ドメインも近々変更します。

ブックマークしてくださっていた方には申し訳ありませんが、決まったらまたブログでお知らせしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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2009年5月24日 (日)

新たな展開。

ここのところ、書きたいことややりたいことがたくさんあるのですが、身体が空かず、なかなか出力できない状態です。

ひとつは、新しいヒーリングを修得しました。気功鍼といって、気のエネルギーを使った鍼です。鍼といっても、エネルギーの刺激なので、実際は器具をいっさい使わず、身体にも触れず、痛みもない、衛生的で、しかも超短時間で行なえるヒーリングです。

心身の浄化、ブロックの解放、チャクラやオーラの調整、不調や痛みの緩和、その人に必要なエネルギーの補充、生命力の増加など、いろいろな面でとても役に立つ画期的な手法です。

気功鍼には、何種類かの鍼があり、上記はスチール、金、銀、真珠という4種類の鍼を使うのですが、もうひとつ、特別な宇宙鍼というのもあり、上記のヒーリングとはちょっと違った、「地球での生を超えたなにかを導き出す」性質があります。

この宇宙鍼は、使う人の誓願によって出てくるエネルギーが違うのですが、わたしの場合は、右手から「制限や封印を解く破壊の鍼」が、左手からは「根底から再構築する創造の鍼」が出てきました。

 

先日紹介したサイキックサージャリーや、気功鍼も、リーブスインスティテュートが開発指導している技術ですが、こうしたことが修得できる背景には、この技術に含まれる遠隔治療や精度という点において、使う人の意識がこの技術を使うときには高次元の領域で機能できるように調整され、その領域で技術を学ぶからです。

ある意味で、時間と空間を超えた枠組みのなかで活動するので、地球のどこにいても、その人個人を特定することさえできれば、いつでもワークすることは可能です(もちろん本人からの希望がないとできませんが)。

こうしたヒーリングを学ぶなかで、わたし自身が本当にやりたいことや、願っていることがどんどん叶えられ、誓願が果たされて力が抜けてゆく感覚を味わっています。いい意味での力が抜ける感覚です。

 

あともうひとつ、最近、わたし自身に新たな変容が起きました。それによって、霊的なトラブルにも対応できるようになりました。たとえば、霊障や呪いや黒魔術、霊的覚醒の危機(スピリチュアルエマージェンシー)などにも、一定の期間の常時ヒーリングサポートを行なうことで可能になりました。

じつは、わたし自身がいろいろな体験をしてきたため、ヒーリングを始めた当初(約7年前)から、こうした霊的なトラブルを抱えた方を多くサポートさせていただく機会がありました。以前までは、大変なエネルギーを使ってこうしたケースに対応してきて、ときに自分が消耗したりしていました(これについてはまたの機会に詳しく書きたいと思います。なぜなら、同じ霊障ワークでも180度違うので、その違いについてわたしが感動していることをいつかお伝えしたいと思います)。

今回、わたしが「あらゆるものから自由で、ひとつである」という前提のもとに、地球や精霊界や宇宙と契約をかわし、宇宙からの信頼と愛をもって、その方の魂や霊たちを自由にするという力強いワークができるようになりました。

 

人間としてのわたしは、「自由であることと、ひとつであること」という意味の神聖さに怯え、何度も何度も、そうなる寸前に逃げてきて、天の頂きと地の底の間を行ったり来たりして自分自身が迷子になりました。

けれども、その迷子の期間には多くの学びがあり、いろいろな経験をとおして、ようやく自分がどうありたいのか、なにをしたいのかを知り始め、それに一生懸命むかううちに、やがて自分が天と地の間のどこにもいないことに気づき、自分が天と地を含むすべてであるというはっきりした知覚を持ったときに、なにもかもがひとつになったのです。

 

もちろん、霊障ワークをするにあたっては正式な指導を受けました(ものすごく楽しかったです!)。いろいろな技術を修得したおかげで複雑なケースにも対応でき、クライアントの方もわたしも安全に行なえて、安全だからこそ自信をもってワークすることが可能になりました。いま、多くの方との出会いと導き、そしていまという瞬間のすべてに心からの感謝があふれていますshine

感動してはいるけれど、いままでで一番冷静でグラウンディングしています。なんかどっしりしてきましたhappy01

けれども、ここはゴールではなくて、スタートだという自覚もあります。客観的にはヒーラーからシャーマンにクラスチェンジ(またはジョブ替え?)したわけですが、わたしは何かになったという自覚はなく、わたしはたんにわたし自身になったのだと思っています。その喜びのままに、自分にとって当たり前で自然なことをし続けたいと思います。ここから、また新しい道がどんどん開けてゆく予感です(わ~い楽しみだ~)。

いままでどおり、ヒーリングやヒーリング講座を仕事としてしてゆくのですが、もうひとつのわたしの願いとして、職業としてのヒーラーではなく、その人がそこにいるだけで周りが癒され自由になってゆくような、そんな人をたくさん家庭や社会のなかに誕生させてゆくことにフォーカスしてゆきたいとも思っています。

 

そんなわけで、以前から考えていたことですが、サロンの名前を変えることにしました。

まだ、ドメイン取得中なのですが、いまのわたしと今後のワークのフォーカスに合っていると感じる名前で、懐かしい名前でもあります。

6月から新しいドメインにサイトを移転し、サイトの中身も徐々に変えてゆくつもりです。しばらく中身はそのまんまになるかもしれませんが(どうなるやら!?)できるだけ早く、新しいエネルギーをお届けしたいと思っていますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

お楽しみに・・・happy02

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2009年5月21日 (木)

お知らせ&つるつる

オープンサロンでは、たくさんの石たちがみなさんのもとに旅立ちました。どうもありがとうございました。

みなさん、石たちを大切にし、可愛がってくださる方たちばかりでしたので、わたしも安心して送り出すことができました。

まだまだたくさんの石たちがありますが、ご希望があれば、その石たちをワークショップやセッションでサロンを訪れてくださる、石を愛する方たちにお見せしたいと思っています。



ところで、ここのところ、地上のエネルギーの変化が加速しているようです。

わたしも、快適すぎるスピードで変化していて、いまでは自分がなにをしようとか、どうしようとか考えたり決めたりする前に、状況のほうがどんどんわたしを先に導き、わたしが戸惑ったり、不安になったりしてついていけてなくても、ちゃんとすべてが整っていて驚いている状態です・・・。

一瞬一瞬がまるで未来からの呼びかけのように、物事はすでに生起している状態でわたしのところに運ばれてくる。そして、気づくときには未来はもう「いま」であり、行動した瞬間にそれもまた消えてゆく。すべてはどこからもこないし、どこへも行かない。本当はなにも起きていないのかもしれない。いまという一点に最初から全部あって、すべてがその比喩のような。

ちょっとおげさかもしれませんが、そんな感覚です。

意識はどこにも焦点をあわせていないけれど、やるべきことだけは不思議にしっかりやれて、それ以外のことは次々に忘れてゆくので、食べることも忘れてしまいます。ツルツル状態です。



『すべては過ぎ去ります』

太宰治の『人間失格』にそんな言葉がありましたが、彼は人間失格なんかじゃありません。天然のピカピカの自分自身だったのだと思います。

わたしも、ただのツルツルではなく、天然ピカピカになれるように、しばらくこの状態を楽しみ、力をぬいて磨きをかけたいと思います(最後まで意味不明ですね)。

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2009年5月 1日 (金)

つねに新たな喜び

春からのわたし自身の変化にともない、やりたいことや顕現したいことが具体的になってきました。その第一弾として、現在、ヒーリングメニューの改編と、ワークショップの内容の見直しと新しいワークの企画をおこなっています。(まだ詳細をアップできていませんが)

いったん空っぽになったわたしは、満たされて、なにもいらなくなってしまいました。そのとき、こんな風に思いました。

「クリスタルがなくても困らないし(これは以前からとっくにそうなっていましたが)、世界中のどこにでも住めるし、誰とでも一緒にいられるし、なにをしてもいい。

けれども、それが自分自身の喜びとならないことを、わたしは選択しないだろう。

まったくこだわりない。けれども、だからといって、何でもOKだ、何でもありだ、というのではカオスになってしまうし、魂の願いを表現できなければ時間の無駄だから、そうでないことを望むならば、その羅針盤は、やっぱり喜びしかないんだ」と。

愛をもってすべてを手放した状態から、また愛をもって必要なもののすべてを引き寄せる。そんな新しいプロセスが始まったのを感じています。

わたしの喜びにしたがって、ふたたびクリスタルたちをハートに迎え入れ、そして新しいワークでみなさんと出会い、学ぶことをまた新しい人生の創造として楽しもう、と、いまはそんな気持ちです。

そうそう、新しいデスクトップピクチャーを更新しました。

さっそくメールをくださった方が、「いままでとちょっと違う雰囲気ですね」という感想をくださいました。果物やハーブをクリスタルと一緒に撮りたいと以前から考えていましたが、今回、実現できて、とても楽しかったです。

May2009

新しいヒーリングメニューも、ワークショップも楽しみなものばかりです。

じつは、先日の瞑想会で、「次回から形をかえておこないます」とみなさんにお伝えしました。というのは、最近、本当にクリスタルの多次元性を理解するようになり、あるひとつのクリスタルをピックアップして、そのエネルギーのある側面にフォーカスして瞑想をリードしてゆく、というやり方では、ときとして、みなさんの自由な想像力や発見の旅を限定してしまうこともあり、ちょっと無理があるかな、と感じていたからです。

クリスタルは、その人の意識の扉がどこに開いているかで、まったく違う情報をくれますし、同じクリスタルでも人によって違う体験をするのです。

なので、それぞれの方が自由に感じ、自由に瞑想(というか遊んでnote)もらいたい。

そこで、みんなで同じ時間に各々自宅で瞑想するのを遠隔でリードしようと思ったのですが、自宅ではなかなかひとりの時間を持てない方や、遠隔ヒーリングのようなワークには馴染みのない方、抵抗のある方もいらっしゃるかな?とも思ったので、なにか、別の形で、やはりみなさんとここで出会って、一緒に交流しながら感じて、楽しんでゆくワークを考えることにしました。

いま、いろいろとアイディアがあり、現在調整中ですので、ご案内はもうしばらくお待ちください。きっと楽しいワークができると思います。

ヒーリングメニューのほうも、近日中に詳細をアップできそうです。

新しいヒーリングメニューは、どれもその方の内なる光にフォーカスして、その方の魂や、本質的な喜びを開いてゆくお手伝いをすることによって、その方が自然に、自分の望む方向に変化してゆけるようなイニシエイト・ワークになっています。

(※イニシエイトとは・・・自分自身の本質に覚醒するという意味で使っています)

これらのワークは経験豊富なスーパーバイザーの指導を受けながら構築したものなので、安心してワークすることができますし、受ける方も、きっと楽しいと思います。

そして、クリスタルヒーリングも、「クリスタルセレブレーション」としてグレードアップします。これまでおこなっていたクリスタルヒーリングに、その方自身の自己治癒力と本来の叡知を拡幅することを基本とした総合ヒーリングワークをプラスして行ないます。

深いリラクゼーションと、光の祝福を味わっていただき、ヒーリングによってその方が、さらに自由で新しい自分に生まれ変わるような、そんなワークになると思います。

ヒーリングメニューを改編する前に、すでに5月のセッションをご予約いただいた方には、ご希望によって新しい内容でワークさせていただきますので、どうぞお楽しみにcherry

また、みなさんと素晴らしい出会いと学びを共有できますように。

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2009年4月11日 (土)

愛と光の中心へ

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3月25日に生涯忘れられない劇的な変容が起こり、わたしは空っぽになりました。いままで学び、経験してきたことや、そこから得た叡知も、そしてわたしという人間のすべてをただあるがままの生命に開き、溶け去るのをゆるし、完全になにもなくなったら、いまここに「在る」状態のわたしがいました。

わたし、という言葉は、かつてのわたしという言葉とちょっとニュアンスが違います。わたしなのですが、わたしはわたしであるという以外に、なんの説明も要らない感じなのです。

わたしはただ在ります。ただ在るだけで満たされ、なにも必要としないわたしがいます。存在そのものの本質がわたしの身体という通路をとおして愛と喜びを体現している。生命(いのち)の源泉から流れる、すべてを生かすひとつの力に触れているような、そして、それを感じている主体はわたしであって、同時にわたし個人ではないような、そんな感覚です。

自分自身のなかに、そして誰のなかにも宿っている崇高な光がある。すべてをあるがままにゆるし、進化の方向を指し示す愛=キリスト意識のかけら=を持ってわたしたちは生まれ、愛し、成長するために生きている。だから、どんな経験をしているときも、生命は喜びとともに前進している・・・それは、人生の支えとなっていた考えであり、わたしはそのことを疑ったことはありませんでした。信じられなくても、それを知っていました。

その神聖な光は生命に含まれ、あるいは生命の本質そのものだから、決して外に見い出すものではありませんでした。わたしは内側へ、内側へと深く入っていきました。心を強くしてどんどん深く分け入り、広大な意識の隅々を探求しました。いろいろなものと出会いました。輝く天使にも出会いましたし、神にも、悪魔にも出会いました。そこには、あらゆるものが存在していました。

それはひとつの世界でした。わたしが創った世界でした。ある種の秩序はあるけれども普遍的な法則が適用されていない世界。霊界は心のなかにあります。わたしは自分の心を救わなければなりませんでした。

出会ったもの、その縁、その経験を受け止め、そこに存在するものや出来事に100%の責任を持ち、それを認め、懺悔し、それを消し去ることなく、しかし自分を貶めず、感謝して、それらのすべてを自分のなかに背負える強さを育んでゆく。その過程で、宇宙の塵みたいに行き着くところのないわたしの心の断片を一つひとつ救出することができました。

わたしは、それらを愛し始めていました。わたしは光も闇も愛し始めたのです。闇を慈しみ、愛しました。それを丁寧に拾い集め、自分に含んだのです。なぜなら、それはわたし自身の欠片なのだから。

光と闇、真実と虚偽はひとつのものです。両方で全体です。どちらかを排除することはできません。どちらもあるから完全なのです。完璧であろうとするとき、闇は切り捨てられ、心は魂から引き剥がされ、生命の泉は渇き、またひとつ、虚ろな、どこへも行き着かない塵を自分という宇宙に誕生させます。

ある方がわたしに言いました。「あの頃、なんかどっかに入ってたよね。あなたは闇担当なんだよ」

その方の言い方には、闇を憎み、嫌悪するニュアンスがありました。

わたしはとても悲しくなりました。その方は自分自身を憎み、嫌悪しているのだなと感じたからです。わたしは言いました。「わたしは闇を愛していますよ。闇があるということは、同じだけの大きな光をその方が持っているのだと信じます。光と闇は、紐の端っこと端っこだと思います」

自分を癒すことは自分でしかできません。光と闇の両方を包み込める愛によってすべてが溶けてひとつになります。ハートを中心に内と外がつながり、自他という区別を軸にした自我は解体され、自由と全体性に向かって生命が開かれます。それは、向こうからやってきます。「癒される」ことが目的だったのではなく、跳躍するために低く屈んで力をためるように、すべてから自由になるためにそのプロセスを辿り、生命の海に身を投げるのです。

答えはもう、内側にありません。すべてがすでにここにあります。

なんのこだわりも、恐れも持たずに存在することができます。人と違う恐怖も、愛されないかもしない恐怖も、生きてゆくことができないかもしれない恐怖も、死も、自分自身も、すべてを超えて、まるごと自分を明け渡してゆく。けれども、無個性だというわけではなく、瞬間瞬間、枠にはまらない本質から反応してゆくので、客観的にはより個性的だと言えるかもしれません。

人生で見いだしてきたすべての価値、あるいは叡知を全部手放すとき、人は本当に、その人自身になるのだと思います。つまり、何者でもなく、何も持たない状態で、もっとも強く、純粋な存在として、在ることができるのだと。

明け渡しは、自分の生命に対して行なわれ、決して誰か自分以外のものにではありません。どんなに素晴らしい人にも、天使にも、仏陀にも、神(として知られているもの)にさえも、自分を委ねてはならない、そんな思いが、自分、あるいは愛とよばれる生命の本質が自分を導いてゆくこと、自分にしたがってゆくことを決意させます。そして、いままで自分を導いてくれたすべてのものたちと別れてゆきます。

けれど、すべてがそこにあります。

すべてを手放した状態とは、必要なものがすべてそこにある状態なのだと思います。それは道であり、自分のすべてを与え、また受け取るプロセスが始まります。永遠に学び続けます。

きっと、わたしたちはいつも、いままでも、これからも、いつまでも、ずっとひとつであり、ひとつであり続けます。

「引き絞った矢は中心を射抜き、その矢は最初から中心を射抜いていたことを知ります。苦しみで引き絞られた矢は、中空に解き放たれ、中心を射抜き、すべての苦しみ(肯定的否定)は愛(肯定的肯定)に変わる」・・・これは、わたしが人生で聞いた言葉のなかで、もっとも美しい言葉のひとつです。いま、わたしは、その響きをかみしめています。

わたしは自分という生命を生かし、自分という愛を、喜びにしたがって表現してゆきたいと思います。生まれたての子供が見るようなまなざしで、新鮮な毎日を楽しみながら、なにも持たずに、ただ与え、受け取ることができますように。

※今後、ワークショップや講座の内容を大幅に改編します。やらなくなることも出てくると思いますし、新たに始めることもあると思います。また、みなさまにお会いできることを楽しみにしつつ、わたし自身の魂の誓願にそって、そこからぶれることなく、そのときそのときの最善を尽くしてゆきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

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2009年4月 8日 (水)

新境地・喜びに支えられて

Blog9

はじめてクリスタルのワークをしたのが1998年だったので、石とのつきあいも11年目になりました。

自然であること、ありのままであること、ただ在ることの純粋さ、強さ、愛を、クリスタルから学びました。

そして、クリスタルヒーリングのワークは、クリスタルからの学びが豊かになり、わたしが日増しに自由になってゆくにつれて、進化してきました。

いまでは、クリスタルは完全サポートに回ってくれています。
クリスタルはエネルギーでした。そしていま、ふたたび自然の一部に戻り、ただ世界の美しさと善の象徴として、そこに存在します。

わたしとクリスタルとの真の友情は、そんなスタンスから育くまれてきたのかもしれません。

クリスタルたちは、人生の主役はいつでもわたしたち一人ひとりであること、
自分という生命のすべての側面に光をあててゆくこと、 内も外もなく、
いつどんなときも、空という本質からあふれてくる愛と喜びですべてを満たしてゆく、そんなことを教えてくれます。

そして、いつでもふわりと力をぬいて、存在の歓喜のなかへ溶ける勇気と愛を示してゆくことを学ぶサポートとなってくれます。

本当の自分を生きること、自然に、ただ在る、そんな純粋な生き方に立ち戻る、
そんなヒーリングワークが、現在のわたしのメイン・フォーカスになっています。

最近、わたしのエネルギーシフトとともに、新しいヒーリングワークが開発されたので、近々ご案内をしようと思っています。 ご案内することを、わたし自身がとてもわくわくしながら楽しみにしています。

また、今後とも、みなさまとの素敵な出会いがありますように。

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2009年3月31日 (火)

春・満開!!

久々に澄み渡った青空が見えた昨日、仕事が空いたので、写真家の師匠とともに春を撮影しに行きました。ときどき、お花を撮影しにゆきます。

今回は、立川の昭和記念公園に行きました。園内はひろ~くて、朝イチで着いたら人もまばら、空は高くて気持ちよく、ほとんどスキップしながら写真を撮りました(途中、園内の観光電車にも乗ったりしてtraintrain)

菜の花は満開、ポピーは半分、そのほか桜や西洋水仙、福寿草もまだまたま咲いていました。チューリップはこれからでしたが、菜の花畑では、独特の春を感じさせる香りと、一面の黄色にくらくら、冷たい空気の中に射してくる強い日差しがとても幻想的でした。

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菜の花です。蜜蜂が飛んできそうな写真でしよ。

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これは、熊が食べるとしびれるという春のびっくり花(名前を忘れました・・)

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ポピー畑では居眠りしそうでした。

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太陽に向かってお行儀よく咲いていた西洋水仙(日本のより少し大きいのです)。

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風にゆらゆら揺れていたチューリップです。可愛い・・heart04

わたしは自分が撮った写真がなかなか気に入っています。師匠の写真とは比ぶべくもないのですが、わたしは自分の写真が、子供が書いた絵みたいで気に入っていると言うと、師匠は「なんか、漫画みてぇな写真だな、いいんじゃねぇ~の、自分で気に入ってりゃ」と言ってくれました(下町育ちの江戸っ子師匠のほめ言葉ですよ~)。

ふと、思いましたが、写真は、その人が世界をどう見ているのかがばっちり顕れるものだと思います。お花たちは、わたしには、こんな風に見えるのです。

菜の花畑で撮ってもらいました。

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とっても楽しかったです~~sign03  今度はしゃくやくと薔薇を撮影しにゆきます。

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2009年1月 8日 (木)

2009 明けましておめでとうございます。

みなさま、明けましておめでとうございます。

昨年はおかげさまで忙しく仕事をさせていただきました。

ありがとうございます。

本年もより一層お一人おひとりと細やかなワークをさせていただきたいと

願っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

miyuki

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2008年11月28日 (金)

この石は石である

Blog6

 ヘルマン・ヘッセが、存在の普遍性と永遠性についてを、石をとりあげて非常に美しい言葉で表現した一節があるので紹介します。

「これは石だ。石はおそらく一定の時間のうちに土となるだろう。土から植物、あるいは人間が生じるだろう。昔なら私はこう言っただろう。『この石は単なる石にすぎない。無価値で、迷いの世界に属している。だが、石は変化の循環の間に人間や精神にもなるかもしれないから、そのゆえにこれにも価値を与える』。以前ならたぶん私はそう言っただろう。

だが、今日では私はこう考える。この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれを尊び愛するのは、これがいつかあれやこれやになりうるだろうからではなく、ずっと前からそして常にいっさいであるからだ。

 これが石であり、今日いま私に石として現れているがゆえにこそ、私はこれを愛し、その条紋やくぼみのすべての中に、黄色の中に、灰色の中に、硬さの中に、たたけばおのずと発する響きの中に、その表面の乾湿の度合いの中に、価値と意味を見る。油のような手ざわりの石も、シャボンのような手ざわりの石もある。葉のようなものも、砂のようなものもある。それぞれ特殊で、それぞれの流儀でオームを唱えている。どれもが梵である。が、同時に、同様に、石である。油のようであったり、シャボンのようであったりする。そのことこそ私の意にかない、驚嘆すべく、礼拝に値するように思われる。

 だが、これ以上それについてことばを費やすのをやめよう。ことばは内にひそんでいる意味をそこなうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすりかえられ、いくらか愚かしくなる。そうだ、それも大いによく、大いにわたしの意にかなう。ある人の宝であり智恵であるものが、ほかの人にとっては常に痴愚のように聞こえるということにも、私は大いに同感だ」

ゴーヴィンダは黙々と傾聴していた。

「なぜおん身はそれを石について語ったのか」

「何の下心もなかったのだ。あるいはひょっとしたら、自分はほかならぬ石や川や、自分たちが観察し、学ぶことのできるこれらいっさいのものを愛するということを言おうとしていたのかもしれない。ひとつの石を私は愛することができる、ゴーヴィンダよ。一本の木や一片の樹皮をも。それは物だ。物を人は愛することができる。だが、ことばを愛することはできない。だから、教えは私には無縁だ。教えは硬さも、柔らかさも、色も、かども、においも、味も持たない。たぶんおん身が平和を見いだすのを妨げているのは、それだ。たぶんことばの多いことだ。解脱も徳も、輪廻も涅槃も単なることばにすぎないからだ、ゴーヴィンダよ。涅槃であるようなものは存在しない。涅槃ということばが存在するばかりだ」

(『シッダールタ』より)

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2008年11月26日 (水)

調和の取れた内的覚醒とは

 「覚醒」とは、よく使われる言葉ですが、定義があいまいなものでもあります。ここでは、ninianが目指す「覚醒」の特徴について、ロベルト・アサジオリの「サイコシンセシス」(精神統合心理学)より引用し、まとめてみます。

●調和の取れた内的覚醒の特徴

・喜びの感覚があり
・人生の意味・目的についての洞察を持ち
・精神的光明を得ていて
・多くの疑念を払い
・数々の問題を解決する力があり
・安心立命の感を与え
・生命はひとつであるという気づきがあり
・その人を通じて、同胞・万物に対する友愛がほとばしり
・パーソナリティの辛辣で冷酷で頑固な部分がなくなり
・愛に溢れ
・愛すべき存在として、他者に親切であり
・奉仕し
・分かち合い
・世界を美しいものと見て
・すべてに微笑みかける

 

となります。その人の心は絶対の平和のなかに定まり、もはやなにものにも影響されない境地、といった感じでしょうか。すべてを生命の本質から来る喜びから行なうことができ、ただなすべきことをなしている。そして、日常のなかにある聖なるもの、善、光を見分け、独創的でいて、存在自体が進化の方向を指し示すエネルギーを持っているので、その人がいるだけで、周りが自然に癒され、成長してゆく、そんな愛のある状態だと、付け加えたいと思います。

それは、得るものではなく、自然に成るものだというのも特徴のようです。

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